ローカル重賞3着だけの馬にジャパンCで◎を打つ(後)
スポーツを面白く観るために。正しく観るために。いやスポーツに限らず、テレビやインターネットや新聞などを通じて届けられる各種の情報、さらには身の回りで起こるさまざまな出来事について、その本質を正しく受け取り、正しく判断するために。そして、競馬が末永く続いていくために。
必要なのは「手間ひまのかかることこそが楽しい」、「あれこれ考えるホビーこそが面白い」という価値観を広く根づかせることだ。
これについては教育の現場あるいは子育ての現場に期待するしかない、と書いた。
だって本来ならこうした価値観を「楽しいよ」と伝える役目を担うはずのマスコミが、その使命を放棄して“わかりやすさ”だけに走り、物事の本質から離れた“うわべ”だけを重んじてしまっているのだから、これはもう国や家庭が何とかするほかないわけだ。
で、ここでキーとなってくるのが実は「ゆとり教育」ではないかと考えている。
一般的には失敗の烙印を押されてしまった感のある「ゆとり教育」だが、その代名詞ともいえる「総合的な学習の時間」の意義については評価すべきだと思う。
wikipediaによれば「総合的な学習の時間」とは「児童、生徒が自発的に横断的・総合的な課題学習をおこなう時間」とされ、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」を学習の狙いとして説明している。
そう、これこそまさに「浅田真央は金メダルを獲れるか」や「佐村河内守の音楽にどれだけの価値があるか」を考える際に必要となる考察スタンスではないか。
残念ながら、この「総合的な学習」の具体例としてあげられているのは「カキの養殖体験、カキ料理作り・カキ販売」といった地域に根ざした活動だったり、あるいは「外国人との交流を通して世界の文化を知る」のようにコミュニケーション能力の向上に主眼を置いたモノが多かった模様。はたまた単純に「国語・算数・理科・社会の範疇に収まらないものの、実生活を送るうえで必要となる知識(コンピュータ関連など)の習得」に取り組んだ学校もあったようだ。
うむ、決して悪い題材ではなかったのだろうと思う。ただしこの「総合的な学習」では「扱える教材の範囲に限界がある」状況だったのだとか。また、いきなり降ってわいたように「生徒たちに総合的に学習させなさい」なんて言われたので、何をどうすればいいのかわからなかった学校・教師も多かったに違いない。
結果として「教室と教科書で学ぶよりも、そこそこ楽しい」学習にはなっただろうが、本当の意味で「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」能力は身についたのか、カキの育てかたや海外の文化を“知る”以上の収穫はあったのか、疑問が残る。
ああ、この「総合的な学習の時間」の成り立ちを考え、各教育機関や児童・生徒に指導する場面で、競馬ファンがリーダーシップを発揮していれば……と悔やんでしまう。
たとえば先の「浅田真央は金メダルを獲れるか」なんて、「総合的な学習」の題材としてピッタリだと思うのだ。
この課題に挑もうとするなら、オリンピックの歴史、フィギュアスケートの歴史とルール、フィギュアスケートが盛んな国内地域&国とその理由、フィギュアスケート選手の経済環境、アスリートの身体的成長が競技成績に及ぼす影響、今回の大会で有力とされる選手の実績……などを調査することになると思われる。それはすなわち、保健・体育、歴史、地理、英語、コンピュータを使った情報入手・情報処理といった各要素の横断的・総合的な学習であることを意味する。
なんと立派な総合学習であることよ。
課題の置き場所はオリンピックでなくとも構わない。まぁ本来なら競馬を題材にしてほしいところだが、さすがにそれはPTAが黙っていないだろうから、プロ野球やJリーグ、サッカーW杯、大相撲など、大人にも子供にも受け入れられている各種スポーツの順位予想・結果予想でOKだ。
スポーツに限定することもない。桜の開花日、真夏日・猛暑日の数、音楽・映画・書籍などのヒットチャート、その年のヒット番付に載る商品・サービス……。何だっていいのだが、とにかく身近で、かつ興味のある話題・方向で、“予想”に主眼を置き、結果が出れば「なぜ的中できたのか」「なぜ外れたのか」を振り返る、そんな内容。
当然ながら「扱える教材の範囲に限界がある」という現状を打破し、さまざまな場所・ソースから幅広く&奥深く情報やデータを入手できる環境が整備されるべきだ。
できるなら、児童・生徒たちにはご褒美を用意したい。1つの予想すべき課題について、どこまで広く深く調べたか、そしてもちろん、実際に的中できたかを評価し、優秀な個人・グループを表彰すればいい。好成績や与えられる栄誉をモチベーションとして、児童・生徒たちはまさしく「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」能力を養っていくだろう。単に“知る”よりも前の段階、つまり「何について“知る”ことが、メダル予想の精度を上げることになるのか」から考えなくてはならないので、これはもうホントに「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」能力が問われる場なのだ。
もし、小学校〜高校の正規の授業時間を割いてこうした課題に取り組むことが困難ならば、課外活動やクラブ活動、委員会活動の一環として“予想”をおこないたい。大学の社会学部などに「予想科」を設けるのもいい。
家庭でも、できることがある。もし子供が「○○○が欲しい」とか「どこそこへ行きたい」などと言い出したなら、お手伝いをさせたり「次のテストでいい点を取ったら」といった交換条件を出すのが相場だろう。が、これからは何かを予想させ、「それが的中したら」ということにすればいい。その際、ヤマ勘や当てずっぽうが通用する題材ではなく、みっちりと各種の情報を調べなければ解答にたどり着けないものを対象とすべし。
もしも「セ・リーグの順位を全部当てれば、なんでも好きなものを買ってもらえる」となれば、子供たちは目の色を変えて各球団の戦力分析に励むだろう。
断言していいと思うのだが、このような学習=必要な情報とデータを各方面から収集・分析し、ある出来事の結果を予想する、という行為は、社会に出れば絶対に必要とされる仕事のプロセスである。
カキの養殖・カキ料理作り・カキ販売も、外国人との交流を通して世界の文化を知ることも、実際に現場を体験したり場数を踏むといった点で大いに意味のあることだと思う。けれど本当にそれを実生活に組み込もうとするなら「成果を生み出すために必要とされる情報や知識の質と量を把握し、それらを取得し、仕事に役立てる」ことが求められるのだから、そうした観点から「総合的な学習」も構成されるべきである。
たぶん、この「将来予測に主眼を置いた総合的な学習」を通じて、子どもたちは気づくことだろう。スポーツや文化、生活に関する報道・情報の中に、どれだけムダで、どれだけ意味のないものが混じっているか。わかりやすい図式とキーワード、記号化されたアスリート像、実際の勝負とはほとんど関係のない情報をそのまんま受け取ることがいかに危険であるか。本来なら“こぼれ話”に過ぎない情報ばかりが発信され、「お前ら消費者・視聴者・読者は、どうせこういうのを望んでるんだろ」とナメているかのような(あるいは、目の前で繰り広げられている事象の本質に迫るための取材力や取材意欲が欠如しているかのような)情報発信がなされているか。
そんな実態に気づいて、世に流れている情報を疑ってかかる姿勢、必要な情報やデータを自ら進んで収集する姿勢、それらを分析してより正しい現状認識と未来予測を実現するための能力……を磨くことは、さまざまな仕事に生かせることだし、たとえば大震災の際に飛び交ったようなデマに騙されない賢い人間を作る術でもあり、つまりは個人の生活と広く市民生活を守ることにつながり、スポーツも守ることになる。
そのための「総合的な学習」に、国・教育機関・家庭は取り組むべきなのだ。
もちろん競馬の未来を憂う競馬ファンとしては、そうやって「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」ことの大切さと楽しさに気づいた人たちが、まさに「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」作業の総本山である競馬(の予想)に興味を持ち、競馬ファンになってくれることを望みたい。
また逆方向から見れば、われわれ競馬ファンは、世に出回っている情報をそのまま鵜呑みにせず、馬柱や独自の予想理論などをもとに、それぞれが自分の信じる馬に◎○▲を打つという行為に慣れている(まぁハズレることのほうが多いのだけれど)のだから、この「本当の意味で生きるのに役立つ総合的な学習」的な姿勢について、進んで世間に知らしめていくことが義務ではないかと思うのである。