ローカル重賞3着だけの馬にジャパンCで◎を打つ(中)
前回、ソチ五輪の女子フィギュアスケートに関して「浅田真央は、金はおろか銀も銅も逃す可能性が高い」と書いたが、哀しいことに現実のこととなってしまった。
ショートプログラム(SP)でのミス連発は当方としても想定外だったが、ペルーサのごとき追込み(違うか)をフリースケーティング(FS)で披露したものの6着に終わったのは事実。悲願だった「五輪での金」は夢と消えたわけである。
浅田選手のSPは彼女が通常なら出せるレベルより20点ほど低かった。浅田選手の最終的なポイントである198.22に、単純に20点をプラスすれば、確変ともいえる鮮やかな滑りで優勝したソトニコワの224.59や、相変わらずの安定感を示したキム・ヨナの219.11には敵わないとしても、3位コストナーの216.73は交わせていたことになる。
が、もしも浅田選手がSPで75点前後を叩き出し、最終滑走グループに入っていたなら、それはそれで浅田真央というビッグネームが他の選手に与える心理的な影響も出てくるだろうし、滑走順も異なってくるし、プログラムを修正してくる選手が出てきたりで、実際の演技の内容やデキは違ったものとなったことだろう。浅田選手自身の滑りも、今回見られたものとは大きくかけ離れた結果になった可能性がある。
正確な予測など、とても無理だ。
あの末脚=FSでの素晴らしい滑りを見て「SPでの出遅れがなければメダルだったのにね」と単純に感じている人も多いに違いないが、それは“たられば”の話。終わった後でなら何とでもいえるよ、の話。
前回分析した通り、もともと今回の五輪における浅田選手は「メダル候補3番手の一角」だったのだ。その現状と、じゃあどういう展開になればメダルの可能性は高まるのか、どのようなプログラムが必要なのか、SPでの出遅れがどのような意味を持つのか……。そのあたりを踏まえたうえで「頑張れ!」と声を送ることが、本来の応援のありかたであったはず。たとえ「もしSPで出遅れなければ」と悔やむにしても、彼我の実力差を正確に把握したうえで空虚な点数計算に臨むべきだ。
こんなこともあった。スノ−ボードの女子パラレル大回転だ。
この競技、1対1のトーナメント制で試合(1試合2本の滑走)が進む。赤い旗で作られたコースと青い旗で作られたコースが左右に並んでいて、まず選手Aが赤コース、選手Bが青コース、同時にスタートして滑る。2本目は赤と青、コースを入れ替えて滑るのだが、もし1本目でAが1秒リードしてゴールしていた場合は「選手Aが青コースでスタート、その1秒後に赤コースで選手Bがスタート」という形。2本目のゴールで先着したほうが勝ち抜け、というシステムである。
全選手からこのトーナメントに進出できる者を決めるタイムトライアル(これも各選手・赤青1回ずつ計2本滑って合計タイムを競う)の時点では青コースのほうがタイムは出ていたのだが、本番に入ると「青は最初の4旗でリードする。だが赤も中盤で追いつき、最後の4旗で差し届く」という状態になった。
どうやら青コースは序盤に急斜面があるらしく、よって、最初からスピードに乗れる。ただし選手の右サイドがやや上がっている形状になっている(これは解説者がいっていた情報)ようで、そのぶん、滑るたびに雪が“掘れる”ことになる。よって試合が進むごとに青コースのほうが時計のかかる雪面になっていったようだ。対して赤コースは、それほど雪面の変化はなく、ラスト4旗の配置か斜面のせいか、最後にグっと伸びる。
もちろん、こちとら素人なので誤った分析かも知れないが、少なくとも「青は最初の4旗でリードする。だが赤も中盤で追いつき、最後の4旗で差し届く」という状況については、もう誰の目にも明らか。ところが実況も解説も、その事実にはノータッチ。
金メダルのかかる決勝1本目、日本の竹内智香選手は赤コースで滑った。案の定ラストに伸びて先着。ただし青コースを滑ったクンマー選手につけたタイム差は、わずか0.3秒。その時点で「こりゃ2本目で差されるな」と感じたものだ。
果たして、2本目に青コースを滑った竹内選手は途中で転倒、銀メダルとなる。これってひょっとすると竹内選手自身も「青コースでは思い切った攻めの滑りで飛ばさないと、最後に差される」という思いだったんじゃないだろうか。
女子スキージャンプでは、絶対的な大本命と目されていた高梨沙羅選手がメダルを逃した。たぶん多くの人が「17歳の女の子に、大本命、絶対的な金メダル候補なんて、荷が重かったね。可哀想なことをしたね」と感じたことと思う。
が、実のところホントに◎◎◎のグリグリだったのだ。成績を調べ、W杯を数試合見ればわかるのだが、高梨選手は「2本のジャンプのうち1本失敗しても勝てる」レベルで、他の選手は「2本キッチリと成功し、かつ、高梨が2本とも失敗して、ようやく勝てる」という力差。そして五輪では、その数少ない可能性=「高梨が2本失敗し、他の選手が2本とも大成功」という状況が起こった。しかも「2本とも大成功」が3人もいた。
この事実を知れば、さらに“五輪の怖さ”というものが身に沁みてくるはずだ。
このように、ホントは伝えられるべきはずなのに、ちっともマスコミが伝えてくれない情報は数多い。もう一貫して「震災を乗り越えて」とか「アラフォーの星」とか「ママになって目指す五輪」とか「キム・ヨナとの一騎打ち」などと、わかりやすいキーワードだけで喧伝する。日本選手の応援実況に終始する。気色の悪いポエムを吐く。
なぜか。おそらく、少しでも選手の実力にゲタを履かせて「メダルの瞬間が見られるかも」と思ってもらったり、わかりやすいキャッチコピーで惹きつけたり、そうしないと中継を観てもらえないという危機感がTV局にはあるのだろう。
まったく、ナメられたものだ。
五輪フィギュアが終わった後も、まだ「浅田真央とキム・ヨナ 対決の結果」と恥ずかしげもなく振り返る番組があったことには失笑するばかりだ。
われわれ競馬ファンには、幸いなことに免疫がある。大レース当日ともなれば、各スポーツ紙に「○○が差す」とか「△△が逃げ切る」などと威勢のいいキャッチコピーが並ぶけれど、それを鵜呑みにせず、馬柱や独自の予想理論などをもとに、競馬ファンそれぞれが自分の信じる馬に◎○▲を打つ。そういう行為に慣れている。
だから、「震災を乗り越えて」とか「アラフォーの星」とか「ママになって目指す五輪」とか「キム・ヨナとの一騎打ち」といったアオリ文句を、まぁ心の片隅には置くけれども、そのまんま乗っかって観戦することは少ないのではないか。それよりも、過去の実績や直近の調子・成績などをもとに「この選手はどの程度の実力があり、どれくらい有望なのか」を気にしながら試合を観る。
だが世間一般は、わかりやすい図式、記号化されたアスリート像、実際の勝負とはほとんど関係のない情報をそのまんま受け取って、観る。
情報を伝える側から“ナメられている”ことにも気づかずに「ローカル重賞3着だけの馬にジャパンCで◎を打つ」というバカげたスタンスでスポーツを観てしまっているのだ。
スポーツだけじゃない。『STAP細胞』を発見した小保方晴子さんについても、その研究内容の意味することなどはそっちのけ、あるいは最小限にとどめ、やれ割烹着がどうのこうの、愛読書がどーの、ムーミンがなんたら、同僚からの評価が云々と、明後日方向の報道ばかりマスコミは繰り返した。そして多くの人が、そうした「本来なら“こぼれ話”に過ぎない情報」を喜んだ。
佐村河内守氏についても、どうやら冷静に分析すれば「過去のさまざまな作曲者による技法のパッチワーク的な音楽」らしいのだが、そうした“楽曲としてどうか”はさておき、現代のベートーベンとか被爆2世といった、わかりやすく悲劇性に富んだキーワードで売り続けた。そして、CDは売れた。
あたかも「お前ら消費者・視聴者・読者は、どうせこういうのを望んでるんだろ」とナメているかのような(あるいは、目の前で繰り広げられている事象の本質に迫るための取材力や取材意欲が欠如しているのかも知れないが)情報発信がおこなわれ、受け取る側はそのまんま受け取る。そんな状況。
これは、何としてでも是正しなければならない。そうすることでスポーツ観戦は楽しくなり、正しくなる。
ただ、問題は大きい。なんといっても上述の通り、「震災を乗り越えて」とか「アラフォーの星」とか「ママになって目指す五輪」とか「キム・ヨナとの一騎打ち」は、誰にとっても“わかりやすい”のだ。
対して、各選手の本当の実力や立ち位置、目標とする成績、力関係などを調べ、把握するのは骨が折れる。
が、その壁を乗り越えて「手間ひまのかかることが楽しい」という価値観を広く根づかせないと、「あれこれ考えるホビーこそが面白い」という意識を植えつけないと、スポーツはダメになるし、ましてや「考えて買う」ことが第一義の馬券=競馬も廃れてしまう。
で、どうすればいいか。正直これについては、まずは教育の現場(あるいは子育ての現場)に期待するしかないのでは……と思うのである。 (つづく)