競馬的『あまちゃん』論と『あまちゃん』的競馬論(7)
ここのところ気になっているのが『ごちそうさん』における宮崎美子の関西弁。エラい流暢だよなぁと感じる。それもそのはずで、小学校の頃は大阪で暮らしていたのだとか。
ネイティヴの耳からすると、『ごちそうさん』の主要出演者中もっとも自然に聴こえるのが徳井優で、キムラ緑子も演技・キャラクターぶんを割り引けば無理がなく、源太役の和田正人は「大阪に近い地方の人が話す関西弁」、TKO木本武宏は芸人ニュアンスが少し乗っかっていて、近藤正臣は「お芝居関西弁(京都ネイティヴだけれど、より役柄にあった関西弁であることに気を遣っている)」というイメージ、悠太郎役の東出昌大はかなり無理がある、といった感じ。どうでもいいか。
で、相変わらずの朝ドラ的競馬論も今回が最後である。
競馬(の予想)は“思いつき”と“思い込み”と“思い違い”の繰り返し。その持論はいまもって変わらない。「こういうことじゃないか」「この馬が勝つんじゃないか」という“思いつき”が心に沸き、いろいろとデータを取ってみたところ「やっぱりそうだ」という“思い込み”へと至り、けれどハズレて“思い違い”だったと知るわけだ。
ここから脱却するために必要なのは、まずは“思いつき”の妥当性。競馬のレースに同じものはないのだから、すべての事象を1つの“思いつき”で捉えることには無理がある。一定の条件下における、つまりは「他のレースではどうか知らないが、こういうときには極めて有効な理論」を目指すべきだ。加えて「他の誰かがまだ手を出していない“思いつき”であること」も重要だろう。
そうした“思いつき”を“思い込み”へと育てる過程においては、期間と範囲を考慮すべし。血統や厩舎・騎手の勢力図、番組などは年々変化するのだから、去年は有効だったのに今年はダメ、という“思いつき”は意外と多いのだ。
ここで重要になるのは覚悟。もうハナっから、“思いつき”を“思い込み”へと昇格させるのに必要なサンプル数、「この理論は有効だ」と言い切るためのクリア条件を設定しておき、それを実現したときにだけ“思い込む”ことにするのだ。
避けるべきは、ただ安直な「ひょっとして」を、テキトーな検証で「やっぱりそうだ」に変えてしまうことである。
ここまでが前回の話。続いて“思い違い”について。
誰しも経験はあると思う。今日はこういうタイプを買うぞ、このレースではこういう馬を狙うぞと心に決め、その通りに買ってみるのだが結果が出ず、やっぱり“思い違い”だったかと見切りをつけて、ならばこっちだと路線変更した途端、最初に狙っていたタイプが来る。そんなマヌケな買いかた。
これを避けようと思えば、まずは「もっと長いスパンで見たときに有効という馬券術や予想理論もあるはず」という事実認識が必要だろう。
たぶん、どんな“思いつき”や“思い込み”であろうと「こういうケースでは、こういう馬が100%勝つ」なんてことはないはず。せいぜい成功率は3割程度、よほど上手くいっても6割くらいではなかろうか。
たとえばいま、京都ダート1800m・良馬場・3歳以上500万下について、2008年以降のデータを取ってみる。関東馬は勝てない、関東の騎手も勝てない、3歳か4歳しか勝てない、馬体重が10s以上減った馬は勝てない、サンデーサイレンス系の勝率が高い……と絞り込んでいくと、その馬が1番人気のときの勝率は66.7%。これなどは、よほど極端な例だろう。ここまでハッキリと「狙える」馬は、そうそういない。
しかも、そこで「しめしめ」とアタマから買ってみたところで、3回に1回はハズレるのだ。数年間というスパンでデータを取ったのだから、その実証的馬券も数年間、我慢しながら買わないと結果はついてこないかも知れない。
ただしいっぽうで、“思いつき”を“思い込み”へと昇格させる際、一定の覚悟を持ってサンプル数を絞り込んだという事実もある。前述の通り、競馬のありようが年々刻々と変化するのは確かだから、1つの“思いつき”と“思い込み”の有効期間も1年か、せいぜい3年くらいだという可能性もある。
やはりここでも覚悟が必要となってくる。“思いつき”から“思い込み”へと至った理論や買いかたの賞味期限をズバっと決めてしまい、その期間はとにかく我慢して買い続ける、それでダメならバッサリと切る(または、あらためてデータを取りなおして別の“思い込み”へと自分を導く)、という覚悟だ。
以上のようなことを考慮すると、年頭または2歳新馬戦が始まるタイミングなどで「これから1年間、自分の馬券を託す“思いつき”と“思い込み”」というものを決めるべきなのかも知れない。
年末、あるいは日本ダービーが終わったタイミングで、過去1年間の競馬を洗い直す。その中から「ひょっとして、いまの競馬はこういう具合に流れているのかも知れないぞ」「この事実にまだ誰も気づいていないんじゃないか」という“思いつき”を得る。あるいは「今後、競馬はこういう具合に進展するはずだ」という“思い込み”を、もう最初っから設定してしまう。
そうした“思いつき”と“思い込み”をもとに、じゃあ具体的にどんなレースでどんな馬を買うべきか、さらにデータを分析して決めてしまう。それにきっかり1年間つきあうのである。
たとえば、いまのマイル路線。スプリンターのロードカナロアとか中長距離専門だったトーセンラーにG1を勝たれているように、全体として低レベル。そこで「じゃあ前走で芝1800mか2000mを走った馬を買うってのはどうだ」という“思いつき”をもとに、いろいろとデータをイジくっていたら、けっこういい雰囲気、勝率17%オーバー、単勝回収率125%という馬の存在が浮かび上がってきた。
たぶん、そう簡単にマイル路線の層が強化されることはないだろうから、今後1年間はこの“思い込み”に乗っかってみる手はあるだろう。
もちろん、そうやって設定した“思い込み”が“思い違い”に終わる可能性はあるだろう。が、しょっちゅう手を変え品を変え「なんか面白い“思いつき”はないか」と色気を出してフラフラするよりも、あるタイミングでまとめて“思いつき”と“思い込み”を整理したほうが、覚悟も持ちやすく、何度も何度も“思い違い”に苦しめられることも少なくなるのではないだろうか。
ひとまず今年の年末には、あらためて「いまの競馬」を俯瞰し、そこから浮かび上がってくる“思いつき”に着目、それを「ということは今後少なくとも1年間は、こういう競馬が見られるんじゃないか」という“思い込み”へと育て、それに正直に1年間つきあう覚悟を持ちたいと思う。
で、いよいよ競馬的『あまちゃん』論と『あまちゃん』的競馬論のラスト。
巷では『あまちゃん』が最終話を迎える前から早くもパート2待望論が湧き上がっていた。なんでも主演の能年ちゃんですら「エヘヘヘ。『パート2』お願いしまぁす」と脚本のクドカンにいったのだとか。小泉今日子は「早く『あまちゃん』は忘れなさい」とたしなめたらしいけれど。
このあたりについて感心させられたのが「能年ちゃんたちの今後の活躍こそが『あまちゃん』パート2」という意見。なるほど確かに、である。もともと朝ドラって若手女優の登竜門的な意味合いもあるし、とりわけ『あまちゃん』はヒロイン=まだ海のものとも山のものとも知れない、先が見えない芸能人という設定。『あまちゃん』前からそれなりに活躍していた能年ちゃんや橋本愛だけれど、一般的な知名度はやはり『あまちゃん』キッカケで上昇したわけで、ある意味、アキちゃんやユイちゃんをそのまんま能年ちゃんや橋本愛に投影することも可能だ。
そりゃあ、いつかパート2が作られることを望みたいけれど、いまわれわれにできるのは「能年ちゃんたちの今後の活躍を見守ること」だけであるのは事実だろう。
競馬の場合、この点についてはシビアで、たとえば“三強の激突”とか“芦毛の時代”とか“史上最高レベル”なんていう、観る者を熱狂させる時期やシチュエーションやレースが、そうそう続くわけでもない。同じメンバーで競馬がおこなわれるのは1年か、長くとも3年程度。1つのタームが終われば、いやおうなく次のタームがやってくるのだ。
だからたぶん、競馬ファンは意外に“あまロス”のような心境に対する免疫ができているというか、すぐに次の楽しみを見つけ出すことが上手い人種かも知れない。
なにしろ「この馬の子どもを応援するのが楽しみ」と、3年や4年は平気で待てるんだから。
『あまちゃん』のようなドラマについても、単純なパート2ではなく、『あまちゃん』的遺伝子を受け継いだ新しいドラマの誕生に期待している、そんな自分がいる。そもそも『あまちゃん』じたい、その構造的な楽しさ・美しさは『ちりとてちん』の遺伝子を受け継いでいたのではないかとも感じている。
『あまちゃん』で成功した要素が解体再構築され、さらに面白いドラマが作られる。競馬の血統のつながりにも似た、そんな“ドラマの血筋”を実感できる状況こそ、自分の待っているものなのかなぁと思う次第だ。
あ、「1つのタームが終われば、いやおうなく次のタームがやってくる」の部分で現在の番組体系についても語るつもりだったのだけれど、長くなりそうだ。これについては、次回以降あらためて思索していくことにしよう。