市丸博司のPC競馬ニュース 谷川善久の枠内駐立不良につき
 第668回 2013.11.11

競馬的『あまちゃん』論と『あまちゃん』的競馬論(5)


 すでに後番組の『ごちそうさん』も大阪編に突入、第2ステージへと移行したけれど、とりあえず今回も『あまちゃん』に競馬を絡めたお話で。

 アキ、春子さん、夏ばっぱ、3人によるヒロイン・トロイカ態勢で突き進む『あまちゃん』に、敢然と割り込んで存在感を示したのがユイちゃんだった。いや、割り込んだのではなく最初から重要な……東京へ出ていくアキの対照としての……役割を担わされていたわけだが、橋本愛の好演と、それを余さずすくい取る撮りかたによって、作者・製作側や視聴者が当初考えていた以上の重みを、このキャラクターは持ってしまったように思う。

 私自身、かなりユイちゃんに肩入れして『あまちゃん』を観ていた。勉さん視線とでもいおうか。泣いたのはほとんどユイちゃん絡みの場面だったもの。
 東京に出る夢が(いったん)断たれたことでグレちゃったユイちゃん。その姿を見て副駅長・吉田くんが絞り出した「ユイちゃんが、オレらのレベルさ堕ちてしまったぁぁ」という叫びは、このドラマのテーマの1つである“田舎のイケてなさ”と、そのイケてなさに蝕まれて歳を取りながらも何とか若い者を見守っていこうとする大人たちの中に渦巻く無力感を、明確すぎるほどに表現した名セリフだったと思う。その絶望感に泣いた。

 で、以後も東京行きを阻まれ続けるユイちゃん。大震災直前には死亡フラグも盛大に立てられるだけ立ちまくった。観ているこちらも覚悟を強いられる。この頃、ホントに『あまちゃん』を観るのが辛かった。
 以前「この『あまちゃん』世界には小泉今日子がいない。つまり『あまちゃん』世界はパラレルワールドだ。だからひょっとしたら震災も起きないんじゃないか」とまで考えていたと書いたが、それもひとえにユイちゃんに生き延びてほしかったからである。

 さて、そのユイちゃん、ネタバレ承知でいうと死ぬことはなかったわけだが、幾度となく「自らの夢の死」は味わってきた。なにしろアイドルを目指して東京へ行こうとするたび邪魔が入るのだ。終いには未曽有の大災害まで発生。あるいは「自分が東京行きにこだわったせいで地震が起こった」とまで考えたのではないだろうか。
 そんなユイちゃんに想起させられたのが「死の需要のプロセス」だった。

 詳しくはWikipediaで「死ぬ瞬間」を調べていただければと思うが、スイスの医師エリザベス・キューブラー・ロスによると、人は自らの死に直面したとき、その事実を受容するまでに次のようなプロセスを経験するという。
 第1段階が、自分は死ぬはずなんかないと考える「否認」。第2段階が、なんで自分がこんな目に遭うのかと周囲に感情をぶつける「怒り」。第3段階が、死なずにすむよう神にすがる「取引」。第4段階が、もう無駄だと悟って失望し、何もできなくなる「抑鬱」。そして第5段階が、最終的に死を受け入れる「受容」だ。

 ユイちゃんの場合、夢の死を眼前に突きつけられるたび、「どうせ私なんか」と安っぽくグレて、立ち直ったかと思えば「夢の死」の大きな原因となった母親に怒りをぶつけ、いやそもそも東京に出るなんて馬鹿な考えだったと周りと自分を誤魔化し、「私の代わりに頑張るアキちゃんを応援する」という立場に転じ、それでもやっぱり諦めきれなかったけれど大震災という究極のラスボスを前にもう絶望しか残らない、という流れ。
 さしずめ、わかりやすい態度=必要以上に自分を貶めて死から目を背ける「逃避」、それから「怒り」があって、自らの心にも周囲にもウソで接する「欺瞞」、他人に生き延びることを託す「転嫁」、そして圧倒的な絶望による「抑鬱」か(多少プロセスは前後する、というか、ユイちゃんの想いは一直線に受容へと進むのではなく、あっちこっち漂流していたように思うが)。

 このあたりの流れをかなり丁寧に描いていたからこそ、ユイちゃんはアナザー・ヒロインとしての地位を作品内に確立できたのだろうと思う。
 そして「ユイちゃんにとっての夢の死を、この『あまちゃん』はどんな風にケリをつけるのだろう? どんな形で『受容』へと至るのだろう?」と、物語の終盤において、それが自分にとってのすべてになった。
 いやはやそれにしても、「実は死んでいなかった」という鮮やかすぎる結論を持ってくるとは思わなかったなぁ。ここでもまた泣いた。沖田艦長は実は脳死には至っていなかったっていわれてもシラケしかないけれど。

 あ、でもお付き合いするならGMTのリーダー・入間しおりちゃんだな。いや、ホントにお付き合いできるならアキちゃんでもユイちゃんでもウエルカムだが。

 で、実のところ僕ら競馬ファンも、しょっちゅう「死」を味わっている。
 馬券で百戦百勝なんて人はいないだろう。よくて的中率30%程度か。つまり予想の7割は“間違っていた”ことになる。勝つと思った馬の7割は負ける。それが単なる思いつきの予想・馬券ならまだしも、たいていの競馬ファンはかなりみっちりと時間をかけて、勝つであろう馬や上位に来そうな馬をあぶり出し、それなりの自信を持って◎○▲の印を打ち、そしてカネを投じる。が、そのほとんどが徒労に終わるのだ。相当な時間をかけて立案した独自の予想メソッドであっても、たいていの場合はハズレる。
 これを「死」と呼ばずに何とする。僕らはレースが終わるたびに「さっきまで『こうなる』と信じていた未来の死」を経験しているのである。

 かつて当コラムで「競馬とは、思いつきと思い込みと思い違いの繰り返し」と書いた。この馬が勝つんじゃないか、この予想理論で勝ち馬を発見できるんじゃないかと、まずは思いつく。いろいろとデータをこねくり回し、トライアル&エラーを重ね、うん、この馬が勝つに違いない、よし、この理論は画期的かつ有効だと思い込む。けれど本命馬は馬群に沈み、馬券は紙切れと化し、先ほどまでの自信は思い違いだったと気づかされる。
 それが競馬である。

 たぶん、この「思い違い」に気づく際=「信じていた未来の死」を受容するときにも、いくつかのステップがあるんじゃないだろうか。
 「この馬が勝たないワケがない。当たらないワケがない。今回はたまたま騎手がミスっただけだ」などと、ホントは自分が間違っているのに(または予想なんて7割がたハズレるのが当然なのに)、それを「否認」する。自分が消した馬なんかに勝たれたら、なんでこんな馬が勝つんだ、また騎手がペース判断を間違えたのかと「怒り」を抱く。
 そのうち「そうか3連単なんて難しい馬券なんかに手を出すからダメなんだ。せめて馬連だけ、ワイドだけでも当たらないか」とか、ヒドい場合には「当たるんなら何でもやりますから」と競馬の神様と「取引」を試み、でもやっぱりハズレ続けるので次第に神経がマヒして「抑鬱」へと移行し、ようやく結局のところ「ああ、俺の予想そのものが間違っていたんだ」と「受容」する。そんな感じ。

 思いつきから思い込み、そして思い違いへ。その流れじたいは、まぁ仕方ない。前述の通り、どんな競馬名人であっても7割はハズレる。それが当たり前。「自分の思い違いだったかぁ」と反省を強いられるケースは多いはずで、それは仕方ない。
 ただ、また次の、昨日までとは異なる「思いつき」に手を出してしまうことが問題。または、思いつくことそのものはいいけれど、そこから「思い込み」へと進む手順や内容・過程が恐らくマズい。だからこそ、またも「思い違い」を味わう。
 あるいはひょっとしたら、実は「思いつき」も「思い込み」もそう間違っているわけではなくて、本当に「たまたま当たらなかった」だけかも知れない。なのに「思い違い」だと思い込んでしまうことだってありうる。そして、さらに違う「思いつき」へと至る。これを延々とループして、結局は勝ちをつかめない。

 そんな「思いつきグセ」「思い込みグセ」「思い違いグセ」が、僕らの馬券収支を悪化させている。その事実にこそ気づくべきなんだと思う。
 じゃあ、どうするか。そのあたりと、最後の『あまちゃん』的競馬論としての「『パート2』と番組体系および血統について」を、次回に。  (つづく)

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