競馬的『あまちゃん』論と『あまちゃん』的競馬論(4)
引き続き、『あまちゃん』と競馬とを絡めたお話。
実は脚本・宮藤官九郎の作品って、いい時はとてつもなくいい……『ぼくの魔法使い』とか『タイガー&ドラゴン』とか『吾輩は主婦である』とか『11人もいる!』あたりは好き……んだけれど、途中で破綻しちゃうと(あるいはハナっからやる気がないと)取り返しのつかないグダグダへと真っ逆さま……『真夜中の弥次さん喜多さん』と『ゼブラーマン』シリーズは「ナメてんのかゴルァ」だった……という印象を抱いていたので、心配していた面はある。今回は“いい時”だったので胸をなでおろした次第。最後の最後まで気は抜けなかったけれど。
で、たぶん世間一般的にも『あまちゃん』の一番の魅力は脚本にあると捉えられているのだと思う。実際、素晴らしいシナリオだったと思うし、人と関係と出来事が小さく関わり合いながら大きな波を生み出して感動を呼び、その中に細かく驚きや笑いや涙を散らした緻密な構成は従来の朝ドラの概念を超えるものだったことは間違いない。
が、決してそれだけじゃない。毎日観ていれば、そして公式サイトなどで関係者のインタビューや裏話なんかを読んでいれば、この作品に関わった人すべてのアイディアや熱意が相乗効果をもたらし、『あまちゃん』を歴史的なドラマに仕立てあげたのだということがよくわかる。
個人的な価値観では、ドラマや映画における脚本の重みって100点満点中20点だと考えている。脚本以外にも、役者の芝居があり、音楽やセットや小道具やロケーションといった美術部門の仕事があり、撮影や編集や特殊効果といった技術部門の仕事があり、それらをまとめあげる監督・演出の仕事があって、すべてが絡み合いながら一塊となってはじめて作品は出来上がるのだ。
そして『あまちゃん』の場合、ヒロインを演じた能年玲奈をはじめすべての出演者たちが「その人でなければならない」くらいの存在感とハマリ具合いを見せつけた。また各役者のアイディアも交えながらキャラクター設定やお芝居や衣装などが固められていき、音楽も大友良英によるあの作品群でなければ『あまちゃん』ワールドは成立しなかったし、その音楽が作り出す独特の雰囲気が作品の色も決め、その色にかなった芝居をしようという意識が演者にはあったろう。
カメラは適確に状況や芝居を捉え、編集は抜群のタイミングと流れで各場面をつなぐ。それらすべてを演出チームがコントロールする。もちろん“優れたシナリオ”に感化されて演者とスタッフがそれぞれの潜在能力を目いっぱいに引き出したという面は大きいだろうが、半面、プロデューサー陣をはじめとする製作スタッフがガッチリとクドカンの手綱を引き絞ることで破綻に至らなかった側面もあるのではないか、と感じている。
ベースとして“優れたシナリオ”が存在していたことは確かだけれど、その行間を埋め、肉付けや色付けをほどこし、1つのドラマとして形にし世に送り出すためには、出演者や製作スタッフの力が不可欠だ。その部分で『あまちゃん』は、びっくりするくらい高いレベルでそれぞれがそれぞれの仕事を完遂し、それが周囲の仕事にも好影響を与え、作品としての仕上がりレベルがさらに高まっていく、という素晴らしい循環の中で作られたドラマだと実感できる。それぞれの部門が他の部門と相互に競い合い、協力し、影響を与えあいながら20点満点かそれに近い仕事を実現し、合計点の高い、あれだけの作品が出来上がったのだ。
つまりは「トータルパッケージ」として『あまちゃん』は優れていたのである。
競馬でも、古くから「テンよし、中よし、終いよし」などと、欠点のない、どんな位置からどんな競馬でもできるグッド・トータルパッケージ的な競走馬が尊敬を集めてきた。例をあげればシンボリルドルフだろう。ポンと飛び出してハナを切る時もあったし、かといって道中はかかることなく岡部に「落ち着け」と教えたくらい、ラストは必ず伸びて相手をねじ伏せたものだ。
が、現在は、どこかが欠けた馬が覇権を争っている。オルフェーヴルはちょっと油断すれば逸走して「中よし」とは程遠いし、ジェンティルドンナも時おりかかる面があり、この3戦は全盛期に比べると末脚の切れに不満があって、ひょっとすると「終いよし」の持ち味が失われつつあるんじゃないかと心配になってくる。ゴールドシップは誰もが認める通りのスロースターターで、お世辞にも「テンよし」とは言えない存在だ。すべてを備えたトータルパッケージって、ロードカナロアくらいじゃなかろうか。
予想においては、競走馬の走りをいくつかに分解し、それぞれの部分での潜在能力や実際発揮能力を数値化したり、ある部分における力のあるなし(または「その部分でどれくらいの能力を発揮したか」)が他の部分にどのような影響を与えるか、研究してみるべきではないか、と思う。
まず考えられるのは、スタートダッシュ、道中での流れの乗り方、勝負どころでの反応、末脚(ラストスパート)と、ゲートからゴールまでを4つに分けてみる手法。
たとえば各馬のスタートダッシュ能力を数値化できれば、位置取りやペースの予想に役立てられるだろう。道中での流れの乗り方に優劣をつけたりタイプ分けしたりが可能だったら、どんなペースに向く馬なのか、どのようなラップに対応できるのかが判明するかも知れない。勝負どころでの反応力の違いでもペースへの対応力は変わるだろうし、コースロスなくコーナーを回れるかなどレースぶりに影響を与えるだろう。末脚の切れや伸び続けられる時間は、結果に与える影響度の大きなファクターだ。
仮に4つの部分を数値化できたとしても、それらを単純に足し算した予想ではダメだろう。確かに合計点が高い馬ほどグッド・トータルパッケージに近い馬であり、勝利に近い馬でもあるはずだが、どこかの部分の最大値だけで好走してしまうというケースだってあることだろう。たとえばスローの瞬発力勝負になりそうなメンバー構成であれば、スタートダッシュなんかほとんど無視できてしまって、道中での流れの乗り方(スローペースへの対応力)と末脚、場合によっては勝負どころでの反応(トップスピードに乗るまでの時間)を重視する予想が求められるかも知れない。
ひょっとすると、まずスタートダッシュ指数で展開・ペースを推測し、その展開・ペースに合うかどうかを道中指数で判断、反応指数とラストスパート指数で勝利できる確率を求める、という手順が必要になるかも知れない。
また、たまにあること&皆さんも記憶にあることだと思うが、本来は逃げたかった馬が出遅れてしまい、つまりこの時点でスタートダッシュ指数がゼロに近い状態に陥ってかなりの不利状況に追い込まれながら、最後の直線でこれまで見せたことのない末脚を繰り出して勝ち負けに持ち込む、なんてことがある。
ということはスタートダッシュ指数とラストスパート指数には何らかの相関があると考えられる。2つの指数の合計値がほぼ一定で、ダッシュが良ければラストが甘くなり、ダッシュが鈍ければ末脚はいい、そんな関係にあるのではないか。もちろん、逃げられないとそのまま後方でレースを終えるタイプ=「あくまでラストスパート指数は一定」という馬のほうが多い可能性は高いだろうが、いずれにせよ、1つのファクターが他のファクターの発現に大きな影響を与えているのは間違いのないところ。あるファクターの数値がこうだったら、他の部分にはこのような影響を与える……といった、競走馬全体の傾向も見えてくるのではないだろうか。
そこまで考えてこそのトータルパッケージ予想だ。
もうひとつ、予想のスタンスとしてもトータルパッケージ的姿勢は大切になるはず。
世の中には、レーティングのように個々の競走馬の全体的な能力を数値化する予想理論もあれば、スピード能力だけに特化した理論や、末脚の鋭さに注目した理論などもある。血統または実際のレースぶりをもとに「その馬はどんな流れに向くか」を解き明かす方法論など切り口は無数にあり、調教やパドックの様子から「じゃあどれくらいの能力を出せそうか」と考えることも重要だし、コースや馬場状態に応じてそのレースで重要となる能力は変化するはずだから、そのあたりにも注意しなければならない。
以前、当コラムで「グループによる予想」を提案した。競馬において重要なファクターや理論をいくつかピックアップし、何人かで分担して研究し、各レースの予想にそれぞれの意見を持ち寄り、何が勝つかを合議によって炙り出す、という予想手法だ。競馬ファンひとりがの研究に割ける時間・労力には限りがあるのだから、何人かで分担して研究・予想してみればいい、いった話である。
ただし、真のトータルパッケージを目指すなら、各理論・各ファクターを別々に考えるのではなく、それぞれを有機的に絡めあいながら予想することが大切だろう。「調子は悪いけれど能力はある」と、体調と能力を合算して有力馬を導き出すのではなく、「調子は悪いから、今回発揮できるスピード能力は絶好調時の6割」などと、個別のファクターが別のファクターに与える影響の度合いまで考慮しなければならないはず。
情報を持ち寄り「この馬は調子がコレコレ、予測される展開やペースはコレコレ、だから発揮できる能力はこれだけだよね」などと、なるべく多くの人の予想を照らし合わせながら進めることが求められる。
それでこそトータルパッケージ予想といえるはずだ。
またしても終わらない『あまちゃん』的競馬論。次回は「死」と自己分析、そして「パート2」と番組体系および血統について考えてみたい。 (つづく)