競馬的『あまちゃん』論と『あまちゃん』的競馬論(3)
さてさて、あれだけ世間を沸かせながら早くも話題に上がることが少なくなりはじめている感もある『あまちゃん』。それでもまぁ引き続き競馬と絡めて考察してみる。
小ネタのぶっこみかたが注目を浴びた『あまちゃん』ではあるが、そんなもんはあのストーリーの魅力のごく一部であって、本質的な『あまちゃん』らしさ、『あまちゃん』の物語がウケた理由は他にある、と思う。エラそーにいわせてもらえれば、物語はこう進めなければならないという基本が押さえられていることだ。
まず“人”がいる。主人公のアキだけでなく、その母の春子、祖母の夏ばっぱまで詳細に人となりや生きざまや性格が描かれて、実質「3人ヒロイン」といった様相だ。さらには周囲のキャラクターも生き生きと、ただ出ているだけでなく物語・展開において重要な役割を全編通して果たすよう配されている。
それらの人と人とが独特の“関係”で結ばれている。ただ家族や友人や知り合いとしてそこにいるというだけでなく、それぞれの人格が相手に影響を与えたり、想いを託したり、ケンカしたり仲直りしたり。その間柄だからこそ生まれるさまざまな関係が用意され、作り上げられたり壊されたり、丁寧に描かれていく。
そして人物たちは、各種の“出来事”を経験する。自ら引き起こしたり、誰かを何かに巻き込んだり、逃れようのないことに悩まされたり。
で、その“人”と“関係”と“出来事”という3つのファクターが有機的につながって響き合い、螺旋を描くようにして物語が展開していく、というのがポイント。実はそれって、どんなドラマでも映画でも小説でも漫画でも基本中の基本というか、そうしなければならないマストな構造であるはずなんだけれど、それがカラっきし出来ていない作品が多い中で、『あまちゃん』はキッチリと責任を果たしていた。
その“人”だからこそ、この“人”とある種の“関係”が結ばれる。その“人”だからこそ、その“出来事”が勃発する。ある“関係”は“人”を変えていく。“人”の変化や成長によって“関係”も変化する。“関係”が“出来事”を呼び、“出来事”が“人”や“関係”を変化させていく。
海女あるいはアイドルの卵という人物設定、震災前後の東北という舞台設定もムダにされることなく、海女だからこそ、アイドルだからこそ、震災が起こったからこその“人”の変化や“関係”の構築や崩壊、“出来事”の連続などが描かれていくのだ。
AさんがBさんといっしょにXを経験しました。次にYという出来事があり、続いてZが起こりました……。などという単純な構造ではなく、AがBと出会ってイという関係を築き、そのおかげでXが起こり、そうするとAとCの関係がロになってYが発生、AはAダッシュになってZを始める、みたいな、入り組みながらの進行。
で、これってドラマや映画や小説や漫画だけじゃなく、スポーツの試合の進行についてもまったく同じことが言えるんである。
1番打者が塁に出て、2番がバントでつなぎ、3番が凡退し、4番が敬遠され、5番がタイムリーを打つ。文字にすればスラスラと流れているかのように見える展開の中でも実は、さまざまな有機反応が起こっている。調子のいい1番に得意球を打たれたことで投手に迷いが生じたり、バントを嫌がっていたはずが簡単に送られて嫌な気分になったり、3番を打ち取って自信を取り戻したのに、ベンチの指示で敬遠策を採ったことでまた投手の心理に変化が生じ、5番を迎えたところでは投手の考える組み立てと捕手のリードとが微妙に違って……、みたいな。それがドラマだ。
シュートを打ったら入りました、という試合なんてない。右サイドから押し込まれていたので選手交代、フォメーションも変更したところ中央でパスがつながるようになり、相手が中に絞って対応してきたら右前方にスペースが生まれ、そこを突くような攻撃を繰り返したらチャンスが増えた……、みたいな。
で、競馬の場合。「この馬は強いから勝ちました」という絶対的なケースは、そう多くないはず。その馬が勝つ、という出来事の発生までには、いくつかのファクターが相互に作用しているものだ。簡単にいえば、レースの展開である。たとえば騎手、馬、馬場状態などがたがいに影響しあって特定の展開や結果がもたらされる。
騎手Aが馬Xに乗ることになり、先行できる脚があるから2番手につけ、強力な相手である逃げ馬Yをマークしようと画策する。ところが馬Yに乗る騎手Bがそれを許さないよう、大逃げを打ったり早めに動いたりするかも知れない。それが状況アを生み、結果として馬Zに有利となる。そんなことがしょっちゅう起こり、レースは流れ、結果は作られるのだ。
騎手Aは何らかの対応策を取るのか、それとも自ら動かず馬Xの能力を引き出すことだけを考えて機を待つのか……。もちろん、各騎手が思惑を実現できるかどうかは乗る馬の力量・脚質・調子などに関わってくるし、相手の思惑まで考慮しなければならない。いろいろと組み合わせながら考えを進めると、想定しうる状況というのは無数に存在することに気づく。
たとえば凱旋門賞。オルフェーヴルはたぶん、ほぼ想定通りの位置でほぼ想定通りの流れに乗っていた。後は、タイミングを見計らってスパートするだけだ。が、他の陣営だってバカじゃない。あの脚を後ろから差そうとしたって無理だから、オルフェーヴルの前につけたいところ。昨年だってソレミアは、単純にオルフェーヴルを差したわけじゃなくって、ある程度前にいて、失速したオルフェーヴルを差し返した形だった。オルフェーヴルとの叩き合いも避けたいところだろう。
ここまでは恐らく、多くのファンが考えたはず。ただ、哀しいかな外国馬が「オルフェーヴルを負かすための乗り方」を実現できるだけの力を持つのかどうか情報が足りず、あるいはオルフェーヴルの力を妄信するがあまりその先を考えずに「結局オルフェーヴルが差し切って突き放す」というところで思考を止めたのではないか。
オルフェーヴルより先に動いたトレヴ。それをマークしながらも「とりあえずオルフェーヴルを外から押さえこめば少しでも勝機は広がる」と考えて(ある意味ではオルフェ頑張れの空気を読まずプロ意識の高さを発揮して)外からオルフェーヴルにフタをしにいったキズナと武豊。そのため一瞬窮屈になったものの、馬体をぶつけながらもど根性で抜け出してきたオルフェーヴル。そのオルフェーヴルと正攻法の叩き合いでやっぱり遅れてしまったアンテロ。
レースを見返せば、あの直線で、騎手、馬の力、それらによって作られた動き、その動きによって起こった新たな流れ、そして最後は馬の力……という、各種ファクターの相互作用を発見することができるはずだ。そして、その相互作用の形成過程と行く末を完璧に予見することが、本当の意味での「展開予想」なのだと思う。
「レースの流れが向いたので勝てました」というケースは確かにあるけれど、じゃあそもそもその流れが作り出されるまでにどのようなことが起こったのかを考えなければならない。ファクターの相互作用による状況の変化を、とことん考えてこその展開予想だといえる。
たいていの場合、こうした状況=展開の予想は、まずは逃げ馬の力と同型の数、それらに乗る騎手の性質などから考え始めることになるだろう。何走か前に逃げ切りで上位に来た馬が、ここ3走は逃げられずに凡退しているけれど、今回は騎手がCに乗り替わってハナ濃厚、というように。
が、場合によっては「もしもこっちの馬が逃げたらどうなるか」と推理の幅を広げてみることも必要になってくるかも知れない。
あるいは、もう秋も深まりつつあるこの時期のローカルのダート戦とか短距離戦なんかだと、とにかく勝ちたい逃げたいという馬だらけだったり、逆に逃げられるだけの先行力を持った馬はあらかた勝ち上がっていて逃げ馬なんかいないじゃんというレースがけっこうあったりするものだ。そんな時、どのようなファクターが絡み合ってどのような状況が生み出されると予想するのか……。
また、当日の馬場状態とか、朝からの傾向を確認し、どうやら今日は前へ行った馬が圧倒的に有利だぞ、とか、逃げ切りが難しい馬場だぞ、といったことがわかった場合には、また異なるアプローチが必要になってくることだろう。
たとえば「この馬が逃げるから」をスタートとする展開予想ではなく、「とにかく逃げた馬が圧倒的に有利だから」を開始点とする予想。似ているようで、これは大きく異なる。圧倒的に有利なんだったら、ふだんは逃げない馬が思い切った策に出るかも知れない。それを左右するのは、やはり騎手の思惑と、逃げたいと思って逃げられる馬なのかどうか、という現状把握。そしてさらに、本当にこっちの馬が逃げた場合、その先にどのようなレースの動きが待っているのか……と考えを進めなければならない。
とにかく、レースは単純に逃げ馬基準で流れるだけでなく、さまざまなファクターが相互に作用しあって展開は作られるのだ。あるいは逆に、予想される一応の展開があり、それでは不利だからと想定外の動きをする馬がいたりして、それがまったく異なる展開を生み出すキッカケになったりもする。
そう思えば展開予想って、考えても考えても正解の見えてこない泥沼のようなメソッド&アプローチなんじゃないかと感じられるのである。
出走メンバーの脚質と調子、前走までの流れ、騎手、陣営の考えなど、さまざまなファクターを考慮して展開を予想しようと思えば、スーパー・コンピュータなみのシミュレーション能力が必要なんじゃないだろうか。
まだまだ終わらない『あまちゃん』的競馬論。次回は「トータルパッケージ」とブレンド予想、「死」と自己分析、そして「パート2」と番組体系および血統についてを考えていくことにしよう。 (つづく)