甲子園とピカドンとタバコ〜夏競馬を考える(後)
いつの間にやら島根県松江市の教育委員会が『はだしのゲン』の閲覧制限を撤回。それでもまぁ、この問題と競馬の関係について考察を進めることにしよう。
子どもに読ませたくない本を、大人が「遠ざけたい」と考えるのは当然。でも、ある保護者が「それでも私は読ませたい」と思うのなら、そうすればいい。
これからは(これまでも、だけれど)子どもたちが「僕は読みたい」と訴えた場合の対処=親・学校・教師の“教育能力”や“教育の方向性”も重要になる。
ただ、閲覧制限だの有害指定だのは行政や公的機関がやる仕事じゃない。民間が実施し、関係者がそれぞれ自由にリアクションすればいい。「何を読んでもらうかを決めること」は、お上からのお達しではなく、子どもと直接触れている親や教師がそれぞれに果たさなければならない義務と権利である。
そもそも「何がどう過激なのか」について、説明不足で表現も広報もマズい。だいたい「有害図書」って言葉がダメ。
前回述べたのは、だいたい以上のようなことだった。
で、こうした問題と競馬との関係を考えた場合、ここでとりわけ重要視したいのは、説得力とアナウンスについてだ。
これはもう何べんもいっていることだけれど、「○○は有害です」とか「○○は子どもの情操教育にいい」とか、少なからず影響力のあるような情報を少なからぬ影響力を持つ立場の人がいうのであれば、それ相応の根拠を示さなければならないはずだ。
こんなの、競馬ファンなら当然の価値観だろう。競馬評論家であれトラックマンであれ市井の予想家であれ、「このレースでは○○が勝つ」というのなら、それを聴く者に納得させられるだけの材料やデータや先例を用意しなければならない。でないと「ふぅ〜ん」で終わりだ。
そう、この問題で競馬ファンがまず自戒とするべきなのは「自分の予想は、それを聴いてくれる人に納得してもらえるのか?」という点。まぁ自分勝手に買っているだけなら別にいいのだろうけれど、個人のプログとかTwitterを含め、なんらかの媒体で外向けに発信するのであれば、結論だけでなくそこへ至る過程についてもキッパリと、説得力を持った形で披露しなければならないのだと思う。
一応は科学的根拠やデータを重視したいところだが、なんなら言語力というか、お話パワーでもかまわない。なんだかわかんないけれど聴いているうちにそんな気がしてきた……、と感じさせるくらいの会話力・文章力・表現力だっていいのだ。
なぜですかとたずねられたとき、ちゃんと説明できてこそ(というか、上手にいいくるめることができてこそ)発言は力を持つ。
もし松江市の教育委員会が、『はだしのゲン』内の描写が過激であり子どもたちに悪影響を与えることを示す科学的な根拠だとか、あるいは口の上手さとか手続きの上手さとかを持ち合わせていたのなら、少なくとも「なんで閲覧制限なんだ!」と感情だけで叫ぶような輩を黙らせることはできたかも知れない。
競馬の予想でも、「これこれのデータから有力なのは○○」と論理的に説明する人と、「前走の脚が凄かったからコレ」と直感だけでモノをいう人と、どちらが信じてもらいやすいかは明らかだ。たとえ直感や曖昧な記憶だけで作り出した予想だとしても、それを噛み砕いて自身の経験や失敗談なども交えながら面白おかしく話せる人と、単に「前走の脚が凄かったからコレ」としかいえない人と、どちらが支持されるかは明らかだ。
もちろん、相手だってバカじゃない。ちゃんと「そうおっしゃいますけれど、これこれこういうデータだってありますよ」と反証を持ち出してくる。これぞ歓迎すべき事態。根拠に基づく措置や問題提起と、それに対するこれまた科学的な根拠や反論、それらが積み重なってこそ建設的な議論も進むというものだ。
図書の閲覧制限の場合であれば、これこれの行為を残虐と考える人の割合はこうなんです、その描写を過激だと考える人はこれだけいるんです、そうした作品に影響を受けた人が自身も暴力的になってしまう割合はこれくらいなんです、同じ作品であっても何歳以上になれば冷静に受け止められるという研究結果があるんです……といったデータや理論がまずあって、それに対して、いえいえこの手の作品が暴力的な性格形成に寄与しないというこういう研究があります、反暴力・反原爆の活動をしている人の何パーセントがこうした作品を読んだ経験を持っています、この種の作品に「ダメったらダメ」とフタをする教師の倍くらいちゃんと読ませて解説してくれる教師の生徒からの支持率は高いんです……といった反論が出てくる。
で、周囲の親や先生は、このナリユキ、この議論の中から「自分ならどうするか」という行動指針のヒントをつかむ。それでこそ人が営む社会だろう、と思う。
競馬だって然り。ある人があるデータをもとに予想する。それに対して別の観点・切り口から別の結論にたどり着く人がいる。また、まったく異なるアプローチから同じ結論に至るというケースだってある。方法論Aと予想理論B、どちらか片方が当たったり、どちらもハズレたり、どちらも当たったり……。
その積み重ねと、さらに「じゃあ、なぜAだけが当たったのか」などと研究を進めることで、どんなレース・どんなメンバーではどのような予想理論やデータが有効なのかも読めるようになってくる。ひいては競馬ファン全体として、競馬予想における真理に近づくことも可能になる。
こうした流れの中に自らの身を置くためにも、自らの予想のバックグラウンドにデータなり経験則なり確率論なりをバックグラウンドとして持ち、それを多くの人に納得してもらうための表現力を磨きたいものだ。
それと、措置を受け取る側にいくつかの選択肢を用意し、彼ら自身が「何をどう考え、どう行動するか」についての権利を守る配慮も重要だ、ということができると思う。
教育委員会は、たぶん『はだしのゲン』だけでなく、同様に彼らが「過激」と考える図書をズラリとリストアップし、「現状で子どもの手に届く範囲内にある図書のうち、われわれはこれらを、こういう理由で『過激』だと判断し、各学校に閉架の処置を求めたいと思います。リストの是非や閉架の是非については各学校の考えに委ねます」としておけばどうだったろうか。
むしろその行為は高く評価され、前述の通り、教育の現場で「何をどう考え、どう行動するか」について深く考えてもらう契機になったようにも思う。
ただ“奪う”だけと捉えられたから非難されたのだ。
仮に競馬主催者が「売上の比率が示す通り、もう枠連なんか流行らないし、同枠取り消しになった場合の払戻しダメージもデカいのでヤメにします」といい出した場合を考えていただきたい。その措置を受け取るだけのハメになる枠連ファンのショックたるや、いかばかりだろうか。
たとえ枠連が廃止される未来が来るのだとしても、いきなりそんな状況を突きつけるのではなく、売上の推移&同枠取り消しにかかわる諸経費といったデータを示すのはもちろんのこと、枠連の代替として新しい馬券種類やサービスを用意したり、枠連の処理に関わる経費が浮く分でどんなことが可能なのかを提示するなど、ある意味ファンに“おうかがいを立てる”ような形の提案から始めるべきだろう。
今回の『はだしのゲン』問題、競馬主催者をはじめとする「何らかの決定事項や措置を、それに従うほか道はない者に示す立場にある人」たちには、くれぐれも注意して事を運ばないとややっこしいことになりますよ、という戒めと受け取っていただきたいものだ。
で、もう一度「子どもに読ませたくない本を、大人が『遠ざけたい』と考えるのは当然。でも、ある保護者が『それでも私は読ませたい』と思うのなら、そうすればいい」というところに戻っておきたい。
私には子どもがいないため、まぁ無責任な意見になってしまうわけだけれど。
「じゃあアナタは小学生や中学生に『はだしのゲン』を読ませるべきだと考えますか? 読ませるべきとまではいかなくても、自由に読める環境を維持するべきだと思いますか? もしも読ませる場合、何年生くらいで、どのような形で読ませ、どのような説明を付け加えるのが妥当だと思いますか? また一般論ではなくアナタ自身に子どもがいた場合はどうしますか?」と訊ねられたら、無責任ついでに「んなもん、わからん」としか答えようがないと考えている。
だって、小中学生といったって人それぞれ。その親も教師もそれぞれ。どんなタイミングでどのようなモノに接してきたか、たとえば“近親者の死”という経験をいつどのような形で初めて迎えたか、それこそ千差万別だろうし、必ずしも親としての資質や教師としての資質に恵まれた者ばかりでもあるまい。一律に「小中学生には読ませるな」では無理がある(まぁそう考えると、教師が下手な説明をして児童・生徒にダメージを与えてしまうリスクを避ける意味で閉架は正解かも知れないとも思ったりするが)。
自分に子どもがいたとして、『はだしのゲン』を読んで理解できるようになるまでにどのような経験をしてもらい、どんな本を読んでもらうのか、そもそも『はだしのゲン』で描かれている内容や描写も精査しなくちゃだし、あれを読むより広島平和記念資料館へ行くほうが何倍も価値があって、かつ衝撃としては大きいとも思うし……と、そこまでいろいろと考えるべき問題だろう。
だいたい、うちの本棚には『はだしのゲン』より過激なものがゴロゴロしているし。
ただ1ついえるのは、過激だからといって単純にフタをすることだけは間違い。何が過激なのか、身をもって経験しないことには過激のなんたるかも心の痛みもわからないだろうから。
と、またもあれこれと書いていたら延びてしまった。『風立ちぬ』におけるタバコ吸い過ぎ問題と、そこから導き出せる「夏は戦争だろ」論に関しては、次回。 (つづく)